「それにしても……奇跡としかいいようがないわね」
「うん。ほんとに」
「軽症で済むなんて……神様もまだ美香子を見捨ててなかったんじゃない?」
「そうだね」
いつもの居酒屋で、肩を並べる私達。
雨のせいか、この店もじとっとしている。
「それで……現実的な話に戻るけどさ」
「うん?」
私はビールをもう一口。
「入院とかでお金、困ってるでしょ。大丈夫?」
「……お金ねぇ」
「前も言ったけど、お金だったら私持ってるから。貸してあげられるよ?」
「……うん。ありがとう」
そして由紀もビールを一口。
私は、由紀の飲みっぷりを観察してから、一呼吸おいて、言った。
「私ね……考えたんだ」
「ん?」
「お金のこと」
「あぁ」
「それでね、二人分の生活費を……これからもとなると、それは厳しいって」
「……そうね」
「翼だって大きくなって、食費とか、教育費とか。かかるでしょ」
「うん」
「それで、思ったの」
「……ん?」
ビールの泡を見つめながら、由紀の顔を見ないように言う。
由紀の口から出てくる言葉はわかってる。
「一人分の生活費なら、なんとかなる……って」
由紀がガタッと立ち上がった。
顔は見えないけど、わかる。わかりすぎるほど。
信じられない、そういう顔。
「あんた……本気で言ってんの?」
「うん」
「翼くんを、捨てるって言うの?!」
「……捨てるとは言ってないよ。預けるの」
「施設に?!」
「そう」
沈黙が流れた。
この沈黙の間は、やけに雨音が強くなったように感じてしまう。
そんな状況にも、もう慣れてきていた。
「……信じられないよ、美香子!」
「しかたないじゃない」
「だって……そんなことして、翼くんがどんな思いするのか……!」
「わかってるよ!」
私は由季を黙らせるように言い切った。
ジョッキを持つ手も震えてきた。
「でも……ここでお金を借りたって、おんなじことの繰り返しだよ」
「……」
「なにをしたって、同じことなの。繰り返し……」
もうビールの泡さえも見れなくなってしまう。
私は目を硬く瞑って、涙がこぼれないように踏ん張った。
幼稚園の先生に言われた。
「翼に無理をさせている」って。
翼が話せないのも、結局は全部私のせいだった。
私が弱かったから。
何にも悪くない翼が、いつも無理して。私を元気付けて。
あんな怪我までして。
それでも、タンポポは握ったままでいて。
このままじゃだめだ。
翼が幸せになるには……どうすればいいのか。
翼が大きな声で笑えるようになるには……どうすればいいのか。
そう考えたら……
私が親じゃなければ、翼はもっと、心から笑えるんじゃないか。
そう思った。
仕方ないことなんだ、って。
ここ数日、ずっと、言い聞かせてきた。
「だから、決めたの。私は……翼のそばにはいてやれない」
私がそういうと、由紀は黙って席を立った。
私のことを、他人事のように思っている人だったら、逆にここで反論していたかもしれない。
『子供には母親が必要だよ』だとか、『元気出して』だとか。
とりあえずな言葉しかかけていなかったと思う。
私を、翼を思ってくれたからこその行動。
そう受け止めて、私はじっと、耐えていた。
店には他に、客はいない。
静かに、居酒屋の昼が過ぎていった。
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