『ブーッ、ブーッ、ブーッ……』
携帯のアラームが鳴った。
5時だ。
それまで時計に目もくれず動いていた為か、時間が早く感じた。
仕事もきりがいいし、今日はこれで終わり。
「美香子。準備できた?」
後ろで声がしたので振り返ると、由季が立っていた。
カバンを背中に抱えて、スーツを手からぶら下げて。
飲みにいく体勢ばっちり。
「あ、ごめん。今5時って気がついたところで」
「いいよ。準備して。まってるから」
「うん」
私は急いでパソコンの電源を落とし、デスクの上を片付ける。
携帯のアラームのスムーズをオフにして、ポケットに突っ込んだ。
よし、行くか。
「やぁねぇ、雲行きが怪しい」
「あ、ほんと」
確かに、雲がだんだんと頭の上に集まってきているようだった。
そういや昨日の天気予報みたのに……なんで傘わすれちゃったんだろ。
今日から当分は、雨が続くっていってたな……
「傘持ってくんの忘れちゃった」
「タクシー使っちゃえば?」
「そんな余裕、我が家にはありません」
「ま、部長クラスの私からタクシー代だしてやってもいいけどね」
学生の頃、『いつもの店』というのにすごく憧れていた。
その話を、よく由季としたものだ。
大人になったら、毎晩のようにお酒を飲んで、部長がどうだ、課長がどうだとか、絶対愚痴りあおうね。
マスターいつもの!なんて言ってみたいね。なんて言ってた。
で、社会人になった私達は、高校生の時の目標通り、『いつもの店』とやらを見つけたのだ。
1週間に2、3回は行っていることになる。
しかし惜しいことに、その店は店長の入れ替わりが激しく、「マスター、いつもの」ができない。
だからもう、見栄を張って「いつもの」なんて言わないで、「ビール中ジョッキ!」と叫ぶ。
それはそれで、飲めればいいのだ。
「今日もおつかれさーん」
カチンと静かにジョッキをぶつける。
「プハぁっ」
由季は思いっきり親父な声をだした。
私はというと……
「ふぅ……」
私はウーロン茶を一口。
その様子をみて、由季は目を細めていった。
「ちょっと。ホントにウーロン茶でいいの?」
「うん。だってこれからお迎え行かなきゃいけないし」
「でもさぁ……雰囲気ってものがあるじゃない」
「だって幼稚園に酒臭いおばさんが来ていいと思ってるの?翼がかわいそう」
「ま、それもそうか」
「そうだよ」
カウンター席に座る女二人。
周りを見渡すと、上司と部下らしきサラリーマンと、いまいちな男といまいちな女のカップル。
その他に客はいない。
「で?話ってなに?」
「ん?うーん……そうそう」
由季は曖昧な返事をしながら、ジョッキの中を覗き込んだ。
黄色いビールは、パチパチと泡がはじけて、キンキンに冷やされている。
由季は由季で、なにかを戸惑っているようだった。
「どうしたの?」
「うーん……どうなの?最近」
「え?」
「色々……生活のこととか」
私と目もあわさずに、ビールの泡だけを見ていう由季。
普段は恥ずかしくなるくらい人の顔を覗き込みながら会話する奴なのに、今日はどこかおかしい。
ごまかしたような仕草で、そわそわしている。
「生活ぅ?……別に、いつもと同じ」
「そう。でも、結構ギリギリみたいな?」
「う〜んまぁ、正直ね」
「そう……」
「ねぇ、どうしたの?急に」
「えっ?……あぁ、うん」
やっぱりおかしい。
明らかに私から目をそらすし、いつものように堂々と酒を飲まない。
肘をついて酒を飲まない由季なんて、由季じゃない。
「うん。じゃぁ……例えば、例えばね」
「うん?」
「もし、美香子が、今、生活していけなくなったら……翼くんはどうなる?」
「生活していけなくなったら?……そりゃ、親戚の家に預けるしかない」
「それは……美香子は望むことじゃないでしょ?」
「当たり前でしょ。ねぇ、なんなの急に」
由季は一瞬目を閉じて深呼吸し、決心したように私の目をとらえた。
私はその真っ直ぐな目に、ドキッとする。
「美香子。こんなところでこんなこと言うのは、いけないってわかってる」
「は?」
「でも、会社じゃこんなこと大声じゃ言えないし……私の立場も考えて、なんだけど」
「何いってんの?」
「美香子」
「なぁに」
その瞬間を、私は絶対に忘れない。
由季はじっと私を見つめて、重い口を開いた。
「上からの命令なの。美香子。あんたは、会社をクビになった」
「……」
「私もできる限りのことはしたの。でももう決まったことなんだって」
「……」
「でも、私が次の仕事場探すの全力で助けるから。大丈夫だよ」
「……」
由季はそこまで呼吸も置かずにしゃべり続ける。
そして終わったかと思うと、またしゃべりだした。
「美香子……大丈夫?」
「えっ?いや……うん。大丈夫」
「でも……安心して。私が責任もって次の仕事探してあげるから。これでも結構顔は広いし」
「……」
「それまでお金で困ることがあったら貸してあげるし。もちろん、無利息でさ」
「……うん」
私は放心状態で、思考が止まってしまった。
由季の言葉に、「うん」だとか、「大丈夫」とか呟くだけだった。
どうしよう。仕事が……クビ?
「美香子……本当にごめん。私の力不足」
「えっ!本当大丈夫だってば。由季のせいじゃないし」
「でも……本当にごめん!」
「いいの。なんか……私仕事も由季みたいにバリバリできないし。会社にとって足手まといだったのはわかってたから」
「美香子……」
「あぁ〜……そっかぁ。クビかぁ」
「……」
「翼、どうしよう」
「……」
「やっぱり、親戚の家に預けた方が良いのかな……」
だんだんと口数も多くなってきて、なんか自虐的になってきた。
なにもかも、崩れていくような、足が地に着いていない、不安な状態だった。
それを止めることができないもどかしさに、本気で狂ってしまいそう。
押しつぶされそうだった。
「ごめん。由季。そろそろ翼のお迎えいかなきゃ」
「……そっか」
「仕事の件さ、よろしく頼むね。もしいい話があったら連絡して」
「わかった……美香子。大丈夫?本当に」
「大丈夫だよ。当分は短期のバイトで食いつなげるし」
「そうじゃなくて。気持ちの方」
「気持ち?」
「翼くんだけが心配なんでしょ。翼くんともし離れることになっちゃったら、美香子はどうするの?」
「私は……頑張るよ。また一からやればいいし」
「……そう」
「ありがとう、由季。由季が上司でよかったよ」
「美香子……」
「じゃぁ、いくね」
「……」
私は無理に体の向きをかえて、歩き出した。
居酒屋のドアを通り抜けて、ツカ、ツカと大股で歩く。
こうでもしないと、自分が本当に地面に見放されそうでこわい。
ちゃんと地面の上を歩いているということを認識しながら、一歩一歩、大股で歩いた。
道行く人が、私が泣いていることすらわからないくらい、早足で。
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