幼稚園を後にして、歩き出す私と翼。
時刻は六時。
そろそろ太陽が本格的に沈み始め、そこら中からご飯をつくる音や、香りがしてきた。
みそ汁の香りと、あげ物の音。
目を閉じるだけで幸せになれそうだが、今は無理だった。
翼はずっと私を見上げていた。
その表情は今までと少し違って、眉毛を傾け、心配そうだった。
後にしてみれば、それはあの質問を待っていたのかもしれない。
いつも私がする質問。
『今日は幼稚園楽しかった?』
それを満面の笑みで返す翼。
そんな毎日のやりとりが、今日はないのだ。
不思議に思うのも無理はない。
雲行きはさらに怪しくなり、雨がポツ、ポツと額を濡らす。
予想通り、夕立の訪れ。
激しく降り出した雨を、よけられるわけもないが、よけることもなく、素直に浴びている私。
翼は今度は私の服を引っ張って、『どうしたの?』と言っているように私の気をひこうとする。
しかし私は、それを無視し続け、雨の中を、ゆっくりと歩いた。
翼も、ゆっくりついてきた。
何分か歩いたところで、翼が急に足を止めた。
手をつないで歩いたいたから、私もつられて足がとまる。
そこでやっと我に返った。
今までぼーっと雨に打たれていたのがなぜなのかよくわからなくなってきた。
翼をみると、さっきまで私の顔色を一生懸命に伺っていたのに、今は、真っ直ぐ前を見据えている。
手をつないだまま、私達はしばらくその場で雨を浴びていた。
翼が動いた。
私の腕をしっかりと掴んで、走る。
後ろも振り向かず、ただ一点を見つめるようにして走る翼。
それに素直についていく私。
とてもじゃないけど抵抗する力はなくて、翼の後ろ頭だけを見ていた。
翼の足がようやく止まった。
後ろ頭を見つめていた私は、頭から目を離し、今度は翼の顔を見た。
翼はやはり一点を見つめている。
私も、そのいってんを見ようと、目を動かした。
そこには、雨に濡れてますます年季が入ったように見える建物だった。
木造で、窓はたくさんあるものの、カーテンがぴっちり閉まっていて建物の中の様子はよくわからない。
小さなドアの隣に、傘立てがあって、その傘立てに、「OPEN」と書かれた札。
なにかのお店のようだった。
翼はまた歩き出して、私達は店の真ん前に立った。
屋根のおかげで、雨はあたらない。
すると翼は、ガサガサと鞄の中からメモを出し、こう書いた。
『あまやどり』
私が次の反応をする前に、翼は私の腕を引っ張って店のドアノブに手をかけた。
ガラン、ガランと音を立ててドアが開く。
きしみながら開けられたドアの先には、薄暗い景色が広がっていた。
5つほどのテーブルが並び、1つにつき3つのイスがきちんと置かれている。
テーブルクロスも不気味に奇麗で、閉め切った窓からは外からのわずかな光が差していた。
奥の方にカウンターがあったので、ここが喫茶店だということが雰囲気でわかった。
翼はまた私の腕を引っ張って、一番近くにあったイスに腰掛けるようにした。
私は素直にイスに座り、翼の様子をまだ伺っていた。翼も私の隣に腰掛けた。
そして鞄からメモを取り出し、『あまやどり』の下にまた書いた。
『だいじょうぶ?』
私はわずか5歳の男の子のこの言葉と、
しわくちゃおばあさん先生の「無理をさせるな」の言葉が胸にしみて、涙があふれた。
顔を覆いもせず、次々にあふれてくる涙を拭こうともせず、ただ涙を流した。
自分の不甲斐なさに怒りも覚えたし、なにに対してかもわからない、
胃がひっくり返りそうな気分も襲ってきた。
翼はそんな私をじっと見ていた。
『ガラン、ガラン……』
またさっきの音がして、雨の音が一時的に大きくなった。
店に、誰かが入ってきた。
「ふー……ひどい雨だ」
入ってきたのは男だった。
黒い服を着た男は、まだ傘をたたむのに夢中で、私達に気がついていない。
傘をさしていたのに、肩はずぶぬれの男。
翼と私は、しばらく彼を見ていた。
「おや?」
男がやっと私達に気がついた。
「お客さん?」
さっきまで泣いていた私に、声なんて出るはずがない。
ただ男だけを見つめる、翼と私。
「まぁいい。ゆっくりしていきなさい」
そういうと男は、はぁ、ひどい天気だとぐちぐち良いながら奥の部屋へ入っていってしまった。
私の涙はいつの間にか止まっていて、頬のあたりがカピカピになっているのを感じた。
翼がまたメモに何かを書いた。
『おなかすいた』
そういえばもう7時近い。
泣いたらお腹がすいてきた。
人間というものは、どんなときでもお腹だけは空くようにできているのかもしれない。
私は店の周りを見渡した。
メニューらしきものは見当たらないし、ウェイターもいない。
でも、大きなコーヒーメーカーもあるし、喫茶店というのは間違いないと思う。
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